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刺激的な人やアイディアや物の見方と出会いたい。
そして、それらを伴って芝居をしたい。 芝居という言葉からは想像できない、 しかし芝居という言葉でしかくくれないことをしたい。 社会性とは責任感だと思っているので 基本的にどんな場合でも大事なところでは投げやりになってはいけないし 創作の場合なんてあらゆる方面に対して責任をまっとうしなくてはならないと思っている。 逆でもいい。 自分が社会に対して責任をまっとうする方法が創作である。 責任責任と一体何の事を言ってるんだ、傲慢だ、と思われるかもしれないが まったくその通りだ。 責任責任と言って、自分に価値を与えたいだけなのだ。 社会にいるためにはそうするしかないのだ。 最近立ち止まることを怠っている。 あらためて言われたことに耳を傾けないとダメだ。 思い出そう。苦いことほど克明に。 忘れたら終わりだ。 |
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しかも目撃者付きで。
「みんな」という言葉は曖昧でありながら限定的な人称代名詞であり その意味できわめて乱暴な言葉である。 ましてや対象が目の前にいない場合に使っていいような人称代名詞ではない。 今想像している「みんな」が本当に「みんな」なのか そのとき何らかの独善的な境界線によって人を差別していないか 差別してしまっていた相手にとって自分は「みんな」なのか よくよく考えてみるべきである。 もちろん呼びかけなどに使うには便利な言葉だろう。 しかしそれ以上に有効ではない。 みんなを「みんな」と括ることによって、みんなは「みんな」ではなくなるし、 曖昧な共同意識に牽引されて生じるコミュニティ以外は 実質的に何も生み出さないし保障してくれるものでもないのである。 そんなような話をして、妹を泣かす。 ほとんど反省も罪悪感もなかったけれど 久々の出来事が一日中頭を離れなかったので 小さなポテトアップルパイを買って帰る。 袋がまったく不親切で、箱が水平を保たないのが腹立たしかった。 500円に満たない金額を考えても 償いというより払拭のための行為だったような気がする。 いつもは等分するところを3/4ほど妹に献上したが 考えているのは結局自分のことばかりである。 |
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たとえば、
F/Tの『H3』がすごかったこととか 久々に同期の笑い声を聞いたこととか よく寝たこととか 美味しいワインを飲んでいることとか ニール・サイモンの戯曲が面白いこととか ドライな付き合いの人が優しいこととか 定期が明日帰ってくるって分かったこととか 妹の作ったシチューが家にあることとか。 よかったことは大体些細なことばかり。 よくないこと たとえば、 何がよくて何がよくないことなのか判断できなくなっていることとか そんなことは自分で決めるしかないのに根拠を求めてしまうこととか 結局自分のことばかり考えて他人に甘えていることとか 最近お祖母ちゃんと一緒にご飯を食べていないこととか 留学するなら大学院に三年いなくちゃいけないと分かったこととか まだまだバイトを決める時間がないこととか。 よくないことは大体どうにもなりそうにないことばかり。 思い出さない日が一日もないということもあるものなんだな。 悪いことではないと信じたいし信じてはいるんだけど それもやっぱり都合よく考えているだけなんだろうか。 まあ、このことの価値に関しては きっと自己完結しか有り得ないんだろうから それこそ自分で決めればいいんだろうけど。 考えれば考えるほど、かなわないな。 |
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最近は相手の話を遮ってしまってばかりいる。
自分の話なんかさらりと譲って もっと相手の話を聞けるようにならなくては。 そもそも遮ってまで伝えるほどの 大した話なんかしていないのだから。 |
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表現者であるということを
自分で決めたわけでもなく 誰かに決められたわけでもないのに 突如として自覚させられることがある 自覚させるのはいつも作品だ 書き散らした文脈や 描きなぐった色線や 掻き鳴らした旋律が 何気なしに人生を切り取って 自己存在証明としての表現を 世界に向かって外在化させている やがて他者の人生まで巻き込んで 作品は肥大化していく そして誰も知らない帰り道にふと自覚するのだ いやしくも自分が 表現者であるということを |
